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保健師の役割の変遷:連盟ふくい座談会:福井県看護連盟


連盟ふくい座談会:保健師の役割の変遷福井県看護連盟座談会 保健師の役割の変遷

時代の移り変わりとともに、保健師が活躍する場は行政、病院、企業等にまで広がり、役割も多様化してきました。そのような状況の中で、今後もより良い活動を継続して行っていくためには、どのような意識が求められているのでしょうか。
 

苦しみもあったけれど、活動を通じて鍛えられた初期の保健師。

司会

今日は、退職されているお2人と現役のお1人にお集まりいただき、かつての保健師の状況、そして現状などについてお話しいただければと思います。
まず、永田シズ子さんからお願いします。

永田
永田シズ子さん
助産師として2年勤務した後、県内の保健師として勤務。定年退職後、社会保険事業団の福井県支部等や中小企業健康管理等にも保健師として勤務した。
信頼される保健師であること、相手の身になって考えること、自分の職業を大切に思うこと、50年の働きの礎は健康と忍耐強さ、粘り強さ、相手を思いやる心、看護を愛する心であると思っている。

はい、私はちょうど終戦前に看護学を2年、助産学を1年学び、その後5年間、金沢の産院で助産師として母子保健に意欲を燃やしてきました。
その後“保健師という職業で働きたい”と思うようになり、資格を取って昭和27年4月に福井県の保健師として採用していただき、昭和63年まで36年間保健業務に精を出してきました。

36年を振り返ってまず思い出されるのは、結核予防についてですね。
終戦直後はまだ結核が蔓延していて、結核予防法ができた頃になって抗結核薬も多く出回り、国が通院患者に1/2公費負担したことも結核の撲滅には非常に効果があったと思います。
昭和30年頃には死亡者も減ってきて、その頃ようやく結核が落ち着いてきました。

司会

確かに当時の保健師の活動といえば、結核や母子保健のウェイトが大きかったように思います。

永田
昭和30〜40年代・健康優良児表彰
保健師は元気で丈夫な赤ちゃんを産んでもらうことを目指して、地域を奔走した。

そうなんです。母子保健についても、福井県、特に今庄町では、非常に母子保健の問題点が多く、乳児死亡や周産期死亡、死産も高かったんです。

当時は「母子愛育会」という組織の育成が全国的に進められていて、県でも今庄町栄村を母子愛育会の指定地区にしていただき、乳児検診は年に2~3回、育児相談は毎月というように愛育会と歩調を合わせて事業を進めてきました。昭和40年に母子保健法が制定されましたが、それ以前から保健所が一丸となって、母子保健だけではなく老人検診や成人病検診の活動も進めてきたんです。

保健師として13年間、苦しむことも多かったけれど、鍛えられたことで仕事に対する自信ややる気が身についたと思います。

司会

保健師活動の最初の時代の中で、大変な思いで頑張ってこられた永田さんは、その頑張りがあったからこそ最後まで仕事を続けられたんですね。
次に惣宇利さんお願いします。

惣宇利
惣宇利幸子さん
県内の保健師として勤務。定年退職後学校保健に8年間携わる。
仕事をしていく上で、「早く丁寧に・親切に・笑顔で」「人事を尽くして天命を待つ」をモットーとしてきた。

はい。私は昭和34年に福井の保健所に就職しました。そこでは見習い的な期間が半年間あり、そのあと試験を受けて採用になりました。

最初に手がけた仕事は集団赤痢の対応でした。
当時、上志比という地区の川の沿岸で赤痢が発生して、毎日大勢の保健師がその地区へ出かけていました。そこでは赤痢の人を見つけて隔離し、検病調査をする、そういう仕事を毎日やっていましたね。

患者さんの家族はもちろん、村中全員調べますから検査に追われて大変でした。

まだ衛生状態も悪くて上水道なんてなかった時代です。上志比地区では皆、その川でおむつを洗ったり、野菜も洗ったり、顔も洗ったりという生活でしたから、川の水の汚物の感染で赤痢が広がっていたんです。

司会

あの頃は、いろいろな地域で赤痢が集団発生していましたね。

惣宇利
各家庭への訪問調査風景

そう、本当に多かったんです。赤痢だけではなく、結核も多い時代でした。
当時、福井県は結核王国とまで言われていて、全国的にも結核による死亡が多かったんです。

担当地区内で結核患者が出ると、お医者さんから届出があり、保健師はその届出があった方を訪問します。
当時も今も、結核というのは自覚症状がない場合が多く、症状がないから病識もないんですよね。だから、患者さんがいる家庭では、家族にも感染する。そんな状況でした。

司会

家族感染をいかに防ぐかが重要ですね。

惣宇利
市町村は、結核予防法(昭和26年度制定)に基づき、住民健診として、レントゲン車で胸部のレントゲン写真を撮影。この方法を早期発見の手段として長く実施してきた。

はい。自覚症状がないから医者にも行かず、なかなか治療をしないんです。当時すでに国内でストレプトマイシンやパスなどの薬が作られてはいたんですが、1本1万円で非常に高価でしたから簡単には手に入りませんし。

この2、3年後には保健所で家族検診も無料で受けられる制度ができましたけど、昭和34年頃にはまだそれがなくて、家族検診を勧めても、お金を出してまで受けようとしないんですよね。

当時、結核の療養生活には「大気・安静・栄養」の3大療法、つまり、きれいな空気の中で安静にして栄養を摂るというものがあり、それを実行してもらうための生活指導もしました。
でも、その指導もとても難しかったですね。

司会

当時は生活水準があまり良くない時代でしたからね。

惣宇利
結核患者の安静大気療法。結核の治療は抗結核薬が発見される前は、安静にし栄養をとる方法しかなかった。
[ 写真 :「日本の看護120年」(日本看護協会出版会) p99-1 ]

そうなんです。栄養を採るといっても、食材が自由に手に入る状況ではなかったですから。

でも次第に良い薬が安く手軽に手に入るようになりましたし、“排菌している人は強制的に入院治療を行うように”という制度ができたことで、患者さんに療養所に入っていただいてなんとか感染を予防できたことも多かったですね。

それに、結核の患者さんの医師連絡というのも重要な仕事でした。お医者さんから連絡があって初めて私たちが状況を把握できるわけですから。